2021-10-11 第205回国会 衆議院 本会議 第3号
小学校五年生から中学校二年生まで、当時の西ドイツのデュッセルドルフで過ごしましたが、多様な価値観や文化に触れながら、日本国が豊かで自由で平和であるよう、そして日本に暮らす人達がそれらを享受できるよう、自分も何か貢献したいという思いを強く持つようになりました。 社会人の第一歩として、通商産業省に入省いたしました。
小学校五年生から中学校二年生まで、当時の西ドイツのデュッセルドルフで過ごしましたが、多様な価値観や文化に触れながら、日本国が豊かで自由で平和であるよう、そして日本に暮らす人達がそれらを享受できるよう、自分も何か貢献したいという思いを強く持つようになりました。 社会人の第一歩として、通商産業省に入省いたしました。
今からもう三十年以上前、私がデュッセルドルフの事務所で駐在員のときに、ドイツのドイチェス・ムゼウム、ミュンヘンにあります科学技術の博物館を見ると、アポロ計画、ソユーズ計画とあって、その展示の真ん中に一つロケットがあるの。V2なの、ロンドンを攻撃していた。彼らにとっては宇宙技術の根幹はV2から始まっているということを展示で見せているわけですよ。
通信料金の国際比較にはさまざまな方法がございますけれども、例えば昨年九月に総務省が発表した世界六都市、具体的には東京、ニューヨーク、ロンドン、パリ、デュッセルドルフ、ソウルでございますけれども、この六都市の調査結果を見ますと、東京の大手携帯電話事業者のスマートフォンの通信料金は総じて海外に比べて高く、また、歴年の推移を見ましても料金が下がる傾向が鈍い状態にございます。
私は、一九八三年から八七年までドイツのデュッセルドルフに駐在をしていて、その二年後のベルリンの壁の崩壊というのは体に衝撃が走った、その瞬間を覚えていまして、なぜベルリンの壁が崩壊したかというのを、その十年前に気づいたジャーナリストがいるんです。 私は、一九八四年、駐在して二年目、新日鉄のデュッセルドルフの所長さんから一冊の本を勧められたんです。
例えば、図表二十を御覧になっていただき、ちょっと縦になりますが、例えば世界のMICE大国ドイツ、ハノーバー、フランクフルト、ケルン、デュッセルドルフ等がありますが、ドイツのカジノ市場は全体で六十五カジノで六・九億ユーロの収益しかありません。ハノーバーを運営するメッセ・ドイチェのアニュアルレポートを見ますと、償還を含めてしっかり黒字を確保して運営がなされております。
四月六日、七日にわたりまして、G20としては初めてのデジタル大臣会合がドイツのデュッセルドルフで開催をされまして、今ほど御紹介いただきましたとおり、高市総務大臣の代理として出席をしてまいりました。
デュッセルドルフの日本人学校でございますが、一九七一年四月に設置されたものでございまして、平成二十七年四月十五日現在で小学部、中学部合わせ五百十九名の日本人生徒が学んでおります。
その中で本当に印象に残っている、この件も前にお話ししたとおりですが、デュッセルドルフに行ったら、もう私も体がぼろぼろで、朝、翌日の巡業地に行かなきゃいけなかったんですが、日本人学校の先生、校長先生が訪ねてきて、何とか学校を訪問してくださいと言うので学校に行きました。
今から三十年前に、私、デュッセルドルフで駐在員をしていました、二十代後半。当時の経験で今でも鮮烈に思っている経験があって、ドイツに住んでいても別にストレスを感じることなく、結構楽しんで生活をしていたんです。出張で初めてイスタンブールの飛行場におりたとき、今から三十二年ぐらい前ですかね、そのときに、ほっとした感じを覚えたんです。
一九八三年に、私は西ドイツのデュッセルドルフ、当時、駐在をしていて、同業他社の所長から一冊の本を勧められたの。「テクノクラシー」という本で、翻訳しているのが田原総一朗さんだったかもしれない。書いているのはビジネスウイークの記者で、出版されたのが一九七九年。冒頭に、ビジネスウイークの記者がいろいろなところを取材していくと、スイスの銀行家が妙な投資をしているというところから始まる。
○アントニオ猪木君 昔、私も選手時代は、世界を回っていたときに、前の委員会でもお話ししたことがありますが、非常に私も涙するような場面というか、ドイツのデュッセルドルフで子供たちが日本の校歌を、日本とドイツを結ぶデュッセルドルフという、そういう歌詞だったと思いますが、本当に子供たちが海外で過ごすこと、実際に海外で生活してみないと、それは体験してみないと分からないことがたくさんありますが、まず、先ほど出
オーストラリアからも要求されておるというようなことでありますけれども、水がない、農地も完備されていないということでありますからそんな恐れることないという、あそこは二十万トンしか以前には取れなかった、二千万人おるということは一人十キロ分しか年間食べなそうでありますので、そういう状況の中では二万人も日本人がおる、そういったところを主体的に出発しようよということで、例えばドイツの、ヨーロッパへ行きますとデュッセルドルフ
○岸田国務大臣 御指摘の案件ですが、三月二十四日、現地時間十一時ごろになりますが、バルセロナ発デュッセルドルフ行きジャーマンウイングス九五二五便が、南フランス、アルプス山脈に墜落をしたということを承知しております。 そして、多くの乗員乗客が命を落とした可能性が高いという情報に接しており、大きな衝撃を受けると同時に、心から哀悼の意を表し申し上げたいと思います。
また、デュッセルドルフでノルトラインウェストファーレン州の州議会の本会議を傍聴いたしました。議長は女性でありまして、議会本会議場には三割を超える女性の議員が座っておられましたけれども、演説をされたのを聞かせていただいたんですね。カリーナ・ゲーデケ州議長ですけれども、十一月九日、ドイツにとっては、東西を分断していた壁の崩壊のみならず、特別な意味を持つというふうにして演説を始められました。
その中で、いろんな国も行きましたけど、一つ思い出に残っているのが、ドイツのデュッセルドルフという、この小学校は相当生徒もいたと思うんですが、日本の空とドイツの空をつなぐデュッセルドルフというかな、二番目が日本の土地とドイツの土地を結ぶ、三番目が日本の友とドイツの友が結ぶデュッセルドルフという、そんな校歌だったと思いますが、非常にちょっと涙するような感じがしました。
平成二十四年度補正事業は、二億五千万円で、既に、ジャカルタとかバンコクなど八カ国十カ所に設置しまして、ことし始まりました平成二十五年度補正予算、これは三億円に増加させて、新しく五カ国七カ所、例えばプノンペンやダッカ、こういったASEAN諸国に対しても、さらにまた、デュッセルドルフやシリコンバレーといったような先進国に対しても、医療機器やハイテク、IT産業などに取り組む小規模事業者に重点を置いた支援を
ドイツというのは、この都市に行くと何でも全部用が足せるというところはどこもなくて、御案内のように、金融はフランクフルト、商業はデュッセルドルフ、貿易はハンブルク、あるいは文化とかそういうものはミュンヘンとか、それで、首都機能が当時はボンにあり、ベルリンにある。私も時速二百キロぐらいで飛ばしましたけれども、それぐらい飛ばすと、結構利便性が高いといいますか、分担ができるようになる。
私が、一九八三年、今からもう三十年ぐらい前になってしまうんですけれども、たまたま会社の都合でドイツ・デュッセルドルフの駐在員をしていたときに、他社の所長から一冊の本を勧められまして、「テクノクラシー」という本でした。
ですから、金子参考人にぜひお伺いしたいのは、繰り返しでもいいんですけれども、私も、一九八三年から八七年までドイツのデュッセルドルフに住んでいて、チェルノブイリのときにヨーロッパにいたものですから、その危機感というのを今でも思っていまして、三月十一日の震災のときにも、水素爆発を起こす前に、結構大変な事態に陥るおそれも多分にあるのかなと思っておりました。
私も二十七から三十まで、デュッセルドルフに駐在して、パリも、ブリュッセルも、あるいはウィーンも、大体ヨーロッパを庭のように普通に出張する。